市民開発(Citizen Development)は、ビジネスの現場が自らデジタルツールを駆使し、業務課題を迅速に解決するという、魅力的な可能性を秘めています。
ノーコード/ローコードプラットフォームの台頭により、かつては専門のIT部門にしかできなかったシステム開発が、現場の手に解放されつつあります。スピードの向上、コスト削減、そして何よりも現場主導のイノベーション。その恩恵を期待し、多くの企業がツール導入の舵を切っています。
しかし、その輝かしいビジョンの裏で、多くの組織が静かな、しかし深刻な問題に直面しています。
それは、「特定の個人への過度な依存」という罠です。
あなたの組織にも、このような「スーパーヒーロー」は存在しないでしょうか?
- デジタルリテラシーが高く、新しいツールを誰よりも早く習得し、次々と便利なアプリを開発する「あの人」。
- 現場のあらゆる部署から「これ作って」「あれ直して」と依頼が殺到し、その人のデスクの前だけ常に行列ができている。
- 彼(彼女)が休暇を取ると、特定の業務アプリが更新できず、最悪の場合、業務プロセスそのものが停止してしまう。
初期の段階では、こうした個人の活躍は「小さな成功体験」として称賛されます。経営層は目に見える成果に満足し、現場は目の前の不便が解消されることに安堵します。
しかし、組織がこの状態を放置した瞬間、市民開発は「組織能力の向上」という本来の目的から逸脱し、「新たな属人化」という時限爆弾を抱え込むことになるのです。
作られたアプリケーションはブラックボックス化し、そのヒーローが異動・退職すれば、残されるのは誰もメンテナンスできない「技術的負債」です。
ヒーロー自身も、過度な期待と負荷によって疲弊し、本来発揮すべき創造性を失っていきます。
そしてそれは、組織にとって二重の損失を意味します。 なぜなら、そのヒーローに集中している負荷の多くは、本来彼らがやるべきではない、現場で解決可能な業務改善が大量に含まれているからです。
組織はエース人材の貴重な時間を、組織の「非連続的成長」をもたらすような、より高度な戦略的イノベーションから奪っていることになるのです。
なぜ、このような事態に陥るのでしょうか。
それは、多くの取り組みが「ツール」の導入(=市民開発プラットフォームの契約)をゴールにしてしまい、組織変革の本質である「ヒト」(人々のスキルとマインドセット)と、そして最も重要な「仕組み」(組織的なプロセス、ガバナンス、サポート体制)の構築を軽視しているからです。
なぜ「個人への依存」は必然的に発生するのか?

「個人への依存」は、特定の人間の性格や能力の問題ではなく、組織のアプローチが生み出す構造的な問題です。特に「ツール主導」のアプローチを採用した場合、この罠はほぼ必然的に発生します。
1. 「ツール」導入が目的化する初期段階
多くの企業が市民開発を「ITプロジェクト」として捉え、ノーコード/ローコードプラットフォームを選定し、ライセンスを配布した時点で「市民開発を開始した」と宣言します。
しかし、これはスタートラインに立ったに過ぎません。むしろ、これは最新鋭の「業務用キッチン」を導入しただけであり、そこで誰が、どのようなルール(レシピや衛生管理)で、どのように調理技術を磨き、どう顧客(=経営層や他部門)を満足させるのか、という「レストランの運営(=仕組み)」がまったく設計されていない状態です。
2. 「得意な人」の出現と期待の集中
ツールが導入されると、必ず「得意な人」が名乗りを上げます。彼らは新しい技術への好奇心が強く、学習意欲も高いため、短期間で目覚ましい成果(=便利なアプリ)を生み出します。
組織は、この「小さな成功体験」を得てさらに推進しようとします。
しかし、「仕組み」が不在の組織では、この成功体験を組織全体にスケールさせる方法がわかりません。結果として、最も簡単な解決策、すなわち「あの得意な人にもっとやってもらう」という選択肢に飛びつきます。
こうして「スーパーヒーロー」が誕生し、同時に「開発のボトルネック」が形成されます。
3. 「ヒト」の定義の狭さが生む誤解
多くの組織が犯すもう一つの過ちは、「ヒト」という要素を「開発スキルを持つ人」と極めて狭く定義してしまうことです。
しかし、ふえん式で定義する「ヒト」とは、はるかに広範な役割を含みます。
- 現場の真の課題を発見し、言語化する「課題発見者」
- 開発プロジェクトのゴールとリソースを管理する「プロジェクト管理者」
- ツールの使い方を教え、活用を促進する「サポーター(アンバサダー)」
- そして、実際に手を動かす「開発者」
「仕組み」のない組織では、これらすべての役割を「得意な人」一人が兼任することになります。彼らは課題をヒアリングし、要件を定義し、開発し、使い方を教え、保守まで行う。これでは疲弊しないはずがありません。
4. IT部門の「正当な懸念」とガバナンスのジレンマ
一方で、IT部門はこの状況に対して(正当な理由で)懸念を感じます。彼らの視点からは、管理外の「野良アプリ」が乱立し、セキュリティリスクやデータ連携の不整合(シャドーIT)が発生することは悪夢に等しい状況となるのです。
この懸念に対処するため、IT部門が取りがちな行動は二つです。
- 中央集権化の強化: 市民開発の権限を厳しく制限し、すべてのアプリ開発をIT部門の厳格なレビュー下に置く。
- 黙認(ただしサポート外): 現場の自由な開発を黙認するが、何か問題が起きてもIT部門は関知しない。
どちらの道も、市民開発の「死」を意味します。前者は現場のスピードと創造性を奪い、後者は「個人への依存」と「野良アプリ」のリスクを放置することとなってしまいます。
このように市民開発社とIT部門は敵対関係になってしまいがちです。
IT部門の組織のデジタル資産を守るという重要な責務と市民開発社の活躍を両立させるために、IT部門を「門番」として「仕組み」を組み立てる必要があります。
市民開発における「個人への依存」とは、ツールという「点」だけを導入し、「仕組み」という「面」の構築をしていない組織が陥る、必然的な帰結なのです。
解決の鍵「Distributed Development(分散型開発)」

「個人への依存」という属人化の罠から脱出し、組織全体としてスケールする市民開発を実現するための鍵が、私たちが「Distributed Development(分散型開発)」と呼ぶアプローチです。
1. Distributed Developmentとは何か?
Distributed Developmentとは、単なる技術的な手法や開発体制の名称ではありません。
それは、これまで一人の「ヒーロー」に集中していた開発に関する「責任」「スキル」「オーナーシップ」を、組織全体へと意図的に「分散(Distribute)」させるための組織戦略であり、変革の哲学です。
これは「全員を開発者にしよう」という無謀なスローガンとは一線を画します。
目指すのは、開発者だけでなく、前述した「課題発見者」「プロジェクト管理者」「サポーター」といった多様な「ヒト」が、それぞれの役割とスキルレベルに応じて、安全かつ効果的に価値創出のプロセスに参加できる「仕組み」を構築することです。
2. 「ふえん式市民開発フレームワーク」と「組織変革のOS」
このDistributed Developmentを実現するための設計図こそが、「ふえん式市民開発フレームワーク」です。
私たちはこのフレームワークを、組織変革を駆動するための「OS(オペレーティング・システム)」に例えています。
このOSは、相互に依存し合う三つの柱(三本柱)で構成されます。
- ヒト: 価値創出の主体。開発者だけでなく、多様な役割(課題発見者、PM、サポーター等)を含む。
- ツール: 市民開発を可能にするノーコード/ローコードプラットフォーム。
- 仕組み: ガバナンス、サポート体制、評価基準、経営ビジョン、コミュニティ運営など、ヒトとツールが安全かつ持続的に機能するためのすべてのルールとプロセス。
多くの失敗する取り組みが「ツール」というハードウェアの導入に終始するのに対し、ふえん式は「仕組み」も含めた3つの要素のバランスがとれたOSの構築を最重要視します。
なぜなら、強力なOS(仕組み)がなければ、どんな高性能なハードウェア(ツール)も、どんな優秀なアプリケーション(ヒト)も、その真価を発揮できず、やがてはシステム全体がフリーズ(=個人依存による停滞)してしまうからです。
3. 分散させるべき3つの要素
Distributed Developmentは、このOS(ふえん式フレームワーク)の上で、以下の3つの要素を戦略的に分散させていくプロセスです。
A) スキルと役割の分散(「ヒト」の多様化)
一人のヒーローに「開発」を集中させるのではなく、アプリ開発のプロセスを分解し、役割を分散させます。
- 課題発見と要件定義: 現場の業務を最もよく知る「課題発見者」が、何をデジタル化すべきかを定義する責任を持ちます。
- 開発: 「開発者」は、その要件に基づきアプリを構築します。開発者のスキルレベル(初級・中級・上級)に応じ、扱えるアプリの難易度を「仕組み」として定義します。
- サポートと普及: 「サポーター」が、アプリの利用方法を現場に広め、簡単な質問に対応します。これにより、開発者は次の開発に集中できます。
- プロジェクト管理: 「プロジェクト管理者」が、リソースとスケジュールを管理し、アプリがビジネス価値に直結していることを担保します。
B) ガバナンスとオーナーシップの分散(「仕組み」の核心)
IT部門による「中央集権的な管理」から、「現場によるオーナーシップ」へと権限を移譲します。これは「放任」ではありません。「ガードレール」のある「仕組み」の上での権限移譲です。
- IT部門の役割変革: IT部門は「門番」ではなく、安全な「高速道路(プラットフォーム)」を建設する「都市設計者」となります。彼らは、セキュリティ基準、データ連携のルール、共通部品(APIやテンプレート)を提供します。
- 現場のオーナーシップ: ビジネス部門は、自ら開発したアプリの「オーナー」となります。そのアプリが生み出す価値(ROI)と、運用(メンテナンス、セキュリティ)に対する責任を持ちます。
- リスクベースのガバナンス: 全てのアプリを一律に厳しく管理するのではなく、「仕組み」としてリスクを定義します。(これが後述の「開発パス」の分岐点となります)
- レベル1(個人・チーム内): ほぼノーレビューで開発可能。
- レベル2(部門間連携): 簡易的なセキュリティチェックとデータ定義が必要。
- レベル3(全社・基幹連携): IT部門による厳格なレビューと共同開発。
C) サポートと開発パスの分散(「仕組み」によるRACIの明確化)
中央のヘルプデスクや「ヒーロー」に問い合わせが集中する体制は破綻します。これを防ぐには、サポート機能そのものを分散させると同時に、「開発パス」を「仕組み」として定義し、組織的なRACI(役割と責任の明確化)を整理することが不可欠です。
- 「開発パス」によるRACIの整理: 「課題の難易度」「扱うデータの複雑さ」「セキュリティリスク」といった基準(前述のリスクベース・ガバナンス)に基づき、開発プロセスを複数のパスに分岐させる「仕組み」を構築することにより、現場とIT部門の責任範囲が明確になります。
- 現場完結パス(セルフサービス): リスクが低い課題(例:チーム内のタスク管理)は、市民開発者が自ら開発を完結させます。IT部門は関与しません。
- 伴走サポートパス(共同開発): リスクが中程度(例:部門間でのデータ連携)の場合、市民開発者が主体となりつつ、IT部門や専門チーム(CoE)が技術サポートやセキュリティの助言を行います。
- IT部門開発パス(委託): リスクが極めて高い、または全社基幹システムに関わる課題は、従来通りIT部門が開発を主管します。
- ピア・サポートの促進(日常サポートの分散): 「開発パス」が交通整理なら、日常のサポート体制の分散も重要です。「サポーター」や「アンバサダー」が、現場の一次的な窓口となり、仲間同士で助け合う文化(ヒトのマインドセット)を醸成します。
- コミュニティ(CoE)とナレッジベースの構築: 部門横断で「小さな成功体験」や開発ノウハウを共有する場(仕組み)を作り、よくある質問(FAQ)や開発標準を明文化します。これにより、ヒーローに頼らずとも自己解決できる「仕組み」が整います。
Distributed Developmentとは、このように「ヒト・ツール・仕組み」の三本柱を意図的に設計し、一極集中した負荷を組織全体でしなやかに受け止める「自走する組織」への変革プロセスそのものです。
さいごに:エース人材を解放し、「非連続的成長」を実現するOS

市民開発の真の目的は、単にアプリケーションを迅速に開発すること(スピードやコストといった表面的な指標)ではありません。その本質的な価値は、変化の激しいビジネス環境において、組織自らが課題を発見し、解決策を生み出し、進化し続ける能力、すなわち「自走する組織」を構築することにあります。
「特定個人への依存」は、この「自走する組織」という理想の対極にある、最も避けるべき状態です。それは組織の脆弱性の表れであり、変革が「ツール」主導で失敗している明確なシグナルです。
なぜなら、その「スーパーヒーロー」に集中している負荷の多くは、本来彼らがやるべきではない、現場で解決可能な業務改善が大量に含まれているからです。スーパーヒーロー個人の力に依存する組織は、そのヒーローが倒れた瞬間に崩壊するというリスクだけでなく、そのエース人材の貴重な時間を「本来発揮すべき価値」から奪っているという、二重の損失を被っているのです。
Distributed Developmentの哲学と、「ふえん式市民開発フレームワーク」という強力な「組織変革のOS」をインストールする真の目的は、ここにあります。
それは、現場でも対応可能な「負荷」を、安全な「仕組み(ガードレールと開発パス)」の上で、現場自身に適切にデリゲーション(委譲・分散)することです。
このOSが駆動する組織では、IT部門とビジネス部門が「パートナー」として協働し、多様な「ヒト」がそれぞれのレベルに応じた課題解決を担います。 「小さな成功体験」は現場が自ら生み出し、組織全体の資産として蓄積されます。
そして、最も重要なこと。 これにより、日常の火消しや小さな改善要求から「解放」されたスーパーヒーローたちは、彼らにしかできない、より高度で、その価値が最大限に発揮される、大きなプロジェクトに集中する時間とエネルギーを得ることができます。
彼らが取り組むべきこと、それは組織の「非連続的な成長」をもたらす戦略的なイノベーションです。
あなたの組織は、今、どちらの道を選んでいるでしょうか。 貴重なエース人材の時間を、現場で対応可能なタスクの処理に使い続けていませんか? それとも、彼らを真に価値ある挑戦へと解き放ち、組織全体の能力を底上げする「OS」を、着実に構築していますか?
真の変革は、ツールを選ぶことではなく、組織の「OS」をアップデートすることから始まります。








